潜入取材2日目【怒濤のクランクイン】
強行されたクランクイン
7月某日。本日は、三河映画「幸福な結末」のクランクインとなる。場所は、愛知県豊田市の挙母神社。最寄りの豊田市駅から、タクシーで5分程度のところにあった。今日は、豊田市の“おいでん祭”が開催されており、駅前も周辺の通りも、大変賑やかである。夕方から夜にかけて、道路を封鎖して、市民たちが踊り続ける「おどりファイナル」というイベントが開催され、大いに盛り上がるらしい。現在、時刻は午後1時を回ったところで、賑やかな駅前の様子を横目で見ながら、私は挙母神社へと向かった。1週間前の状況を考えると、監督や主演の香奈さんと対面するのは、少々緊張を感じる。あれから状況は好転したのだろうか。
私を出迎えてくれた岩松監督は、予想に反して、とても元気な面持ちであった。3日前、彼は仕事中に胃痛で倒れ、勤務先の小学校から病院に運ばれたと聞いていたが、その話が嘘のように、すこぶる元気そうである(この当時、岩松監督は小学校の教師であった)。主演の井上さんも、3か月のリハーサルを積み重ね、いよいよ待ち望んだクランクインという趣で、表情には期待感に満ちあふれていた。ただ、相手の主演の香奈さんは、緊張のせいか口数が少ない。聞いたところ、どうやら前回、私が取材をした日から1週間。彼女はリハーサル会場で毎日泣き続け、クランクインまでリハーサルを再開できなかったらしい。彼女は、どんな思いで今日の日を迎えたのであろう。逃げ出したくはならなかったのであろうか。まだ16歳の少女の心境を思うと、我々も胸が苦しくなる。そんな彼女の思いに関係なく、時間は刻々とすぎ、撮影開始の午後18時になれば、撮影は否が応でも開始される。
撮影前、全スタッフ・キャストは、挙母神社で撮影の無事終了を祈願する。私は隣にいた記録の近藤さんに「屋上のロケ地は見つかったのですか?」と尋ねると、結局、ロケ地が見つからないまま、クランクインを強行したという。その会話を聞いていた、ラインプロデューサーの中山さんは「岩松監督は、ブルドーザーなんです。目の前に大きな穴がごろごろ空いているのに、構わず突き進んでいく。問題が山積みなのに、決して立ち止まろうとはしない。だから、彼について行くスタッフは必死なんです」と言って苦笑いしている。
撮影地の神社で成功と安全の祈願の後、美術スタッフの佐藤さんが、境内に並んでいた屋台のテキ屋さんに怒鳴られているのが目に入る。今回の撮影では、本物の屋台から少し離れた場所に、美術チームによって屋台のセットが建てられていた。幼少期の主人公親子が、屋台に並べられたレコードを購入するというシーンの撮影のためである。しかし、その屋台のセットがあまりにリアルであったため、テキ屋さんが本当に商売をするのかと勘違いし、「おまえたち、ちゃんと場所代払ってるのか!」とすごまれたらしい。今日の撮影については、事前に豊田市から撮影許可を得ており、屋台で商売をしているテキ屋さんたちにも連絡が回っていたため、大事にはならずに済む。美術班もホッと胸を撫で下ろしていた。
午後14時半。エキストラとカメラマンを交え、リハーサルが行われる。すでに、挙母神社の境内には、屋台が2列、ズラリと並んでいる。この日の撮影は、屋台と屋台の列の間で撮影を行うことになっていた。ただし、肖像権の問題があるため、一般のお客さんが画面に映ってはいけない。主演の2人を丸く囲むようにエキストラが配置され、一般のお客さんの顔が識別できないようにする。エキストラに囲まれた塊ごと、撮影班は屋台の中へと移動し、その隊形の中で撮影を敢行する作戦であった。撮影は夜間だが、昼間にカメラマン率いる撮影チームと役者とエキストラたちは何度も何度もリハーサルを繰り返していた。
強制終了された撮影
午後18時。いよいよ撮影が開始される。撮影チームと役者チームが隊形を組み、人だかりの屋台の間の道へと突入していく。屋台の列の両端には、プロデューサーの清水さんたちが「幸福な結末」のポスターを片手に掲げ、もう片手にはハンドマイクを持って「ただいま映画の撮影を行っています。ご協力お願いします」とアナウンスし続けている。一般のお客さんに紛れて撮影を行う場合、あまり目立たずにいたいところだろうが、このアナウンスと煌々と炊かれた照明のため、撮影班は非常に目立っている。「あ、映画の撮影している!」という声と共に、あっという間に、野次馬に取り囲まれ、撮影班と役者たちは動けなくなり立ち往生。雪だるま式に野次馬の数は増え続け、撮影班を取り囲んだ人の輪は、巨大に膨れあがり、野次馬が屋台の器具やテーブルを押してしまう。そのことに腹を立てた屋台から「おいおい、営業妨害だろ」「撮影止めろ!」と怒号が聞こえ出す。押されて倒れる人も見受けられ、撮影班周辺は大騒動だ。
撮影班の中心に目を向けると、監督の「カット」がかかるごとに、主演の香奈さんはその場に立っていられないほど大号泣している。自分では立っていられないため、制作助手の竹内さんが肩を貸して立っているのがやっとだ。撮影している場面は、泣く演技が必要ではないため、どうして泣いているのか、さすがに岩松監督も心配し、記録の近藤さんに確認をとらせているが、「本人も分からない」と言っているらしい。その答えに監督も困った表情だ。やはり1週間前から引きずっている演技に対する不安のせいなのだろうか。それにも増して、香奈さんの隣で演じる井上さんの形相を見て、我々はさらに驚かされる。彼は、絶望の淵に立たされた主人公に完全に憑依している表情をしているのである。普段の温和な井上さんからは想像もつかないオーラに完全に圧倒される。そのオーラのせいで、スタッフたちでさえ容易に声をかけられないという空気感が伝わってくる。お祭りの熱気と三河映画の熱気が相まって、取材する私も興奮状態に包まれていく。
しばらくして、徐々に屋台の灯りが消えてきていることに気づく。お祭りも終わりが近いようだ。撮影班は必死の顔つきで撮影を続けている。野次馬の問題もあり、思うように撮影は進まず、どうも予定していた半分のカットも撮れていない状態のようなのだ。撮影班は、まだ灯りがともっている屋台の方へすがるように移動し、撮影を続けていったものの、ついに全部の灯りが消え、撮影は強制的に終了となってしまった。
残りの半分の未撮影のカットをどうするか。頭を抱えるスタッフたち。このまま暗礁に乗り上げるのかと思いきや、さすがに岩松組は違っていた。すぐさま、ラインプロデューサーの中山さんが、愛知県一帯の祭りを調べ、この挙母神社と同じような隊形で屋台が並ぶ祭りがないか確認を取るように指示が出る。それに対して、スタッフの中から、豊田市の隣の岡崎市の花火大会でも似たような配置で屋台が並ぶという情報をキャッチする。そのお祭りは、1週間後に開催されるという。その場で岡崎市の行政に知り合いに電話を入れ、翌日の朝一番で、岡崎市の撮影許可を取るように指示が飛ぶ。取材をしていた私は、ここまでのスピード感に圧倒される。さすが、ここまでに百戦錬磨を乗り越えてきた三河映画だけあると感心することしきりであった。後日確認したところ、1週間後、無事岡崎市での撮影が行われ、全カットを撮り終えることができたそうである。
同じ祭りを探せ!
覚醒したヒロイン
撮影初日を終えたコメントをとろうと、私は監督のもとへと向かう。岩松監督は、撮影中の香奈さんの様子を気にしており、彼女に「大丈夫だったか」と聞いている。すると、彼女は満面の笑みで「撮影、すごく楽しかった!」とハイテンションになっている。あまりの興奮に笑いが止まらない。追い詰められ過ぎて、彼女の心の針が振り切れてしまったか。信じられないようなエキサイトぶりに監督のみならず、周りのスタッフたちも驚いている。リハーサルでの様子が嘘のようである。後から聞いたところ、香奈さんは、この日を境に持ち前の根性で堂々と撮影に臨み続けていったそうである。女優・清水香奈が覚醒した瞬間に我々は立ち会ったのだと実感した。
機材等の撤収が終わり、撮影現場近くのファミレスで、三河映画チームの遅い夕食会が開かれた。会場に入っていくと、我々は思わず苦笑した。学生の助監督が、メニューを見ようともせず、両手を前に投げ出して、顔面をテーブルに押しつけたまま眠っているのだ。しかも、その彼が座っているのは、岩松監督の隣の席なのだ。周りに構わず倒れ込んでしまう、彼の崩壊ぶりは、岩松組の撮影初日の壮絶さを物語っていた。私も相当疲れていたようで、今日はずっとひどい頭痛にも襲われていた。帰宅して分かったのだが、どうも熱中症にかかっていたようだ。私の脳も三河映画の熱ですっかり侵されてしまったようである。